東京高等裁判所 昭和40年(う)993号 判決 1966年1月27日
被告人 川元正
主文
原判決を破棄する。
本件を大森簡易裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検事鈴木寿一が差し出した大森区検察庁検察官事務取扱検事横溝準之助名義の控訴趣意書に記載してあるとおりであり、これに対する答弁は、弁護人真部勉が差し出した答弁書に記載してあるとおりであるから、いずれもこれを引用し、これらに対して当裁判所は、次のように判断をする。
原判決の要旨は、被告人には、道路交通法第六八条、第九五条第二項違反の現行犯人として逮捕手続がとられているが、被告人の所為が同法第九五条第二項違反(運転免許証提示拒否)の罪にあたらないことは明らかなので、同法第六八条違反(速度超過)だけが問題になりうるのであるが、本件逮捕が速度測定終了の地点から約三〇〇メートル離れた地点で為されていること、その間追呼されている事実がなく、逃走しようともしていないことなどからみて、現行犯ないし準現行犯と認めることは困難である。仮に一歩を譲つて現行犯逮捕の要件を備えているとしても、違反の態様、被告人の職業その他諸般の事情を考慮すれば、逮捕の必要性がなかつたと思われる。また、逮捕にあたつた捜査官は、被告人が抵抗したわけでもないのに、公衆環視の中で暴行陵虐を加え、被告人に約二週間の入院加療を含む約一ケ月の休養を要する傷害を与え、その威力の影響の下において取調を行つている。このような暴力の行使は、いわば形を変えた拷問で、有罪の証拠を確保しようとする捜査活動に奉仕するものである限り、その不許容性において拷問のそれと選ぶところがない。以上の二点を総合判断し、また本件事案が軽微なものであることを考慮すると、逮捕から取調に至る全事態は、事実上憲法第三六条に違反し、同時にまた同法第三一条に規定する法の公正な手続による裁判の保障に反するものといえる。もちろん、捜査段階において憲法違反の事実があつても、ただちに公訴提起が無効になるわけではないが、本件は憲法第三一条の運用が期待される典型的な事例であり、同条違反の訴訟手続において刑罰を科することは許されないから、憲法第三一条を適用し、刑事訴訟法第三三八条第四号を準用して公訴棄却の言渡をすることが適当であるというのであり、所論はこれらをいずれも争うので審按するに、現行犯人逮捕手続書および司法巡査作成の捜査報告書並びに原審証人豊島芳三、同小林吉三、同古田土邦および同村上正の原審公判廷における各供述に当審の事実取調の結果を総合すれば、被告人はいわゆる定域測定式速度違反取締りの実施にあたつて速度違反の事実を現認され、かつ、その現認の直後、その取締りの現場において逮捕されたものであることを認めることができるから、刑事訴訟法第二一二条第一項にいう「現に罪を行い終つた者」として逮捕されたものと解するのが相当であり、従つて、逮捕の要件を備えていたものというべきである。すなわち、右各証拠によれば、昭和三八年一一月一二日実施された本件定域測定速度違反取締りは、合図係を豊島芳三、測定係を小林吉三、記録係を古田土邦、停車係を村上正がそれぞれ担当し、あらかじめ道路上に一定距離の区間を測定しておき、合図係は速度違反の疑のある車両を認めたときは、右車両が右区間の入口を通過すると同時に自記式速度測定機を始動させ、測定係は右車両が右区間の出口を通過すると同時に右測定機を停止させ、記録係は右測定機のテープを解読し、速度違反の事実があると認めたときは停車係に右車両のナンバー、型式、色彩等を通報し、停車係は右通報に従つて右車両を停車させて速度違反の取締りを行おうというものであるが、被告人に対する本件逮捕に当つては、停車係を担当していた警視庁東調布警察署村上正巡査が、記録係を担当しており、右自記式速度測定機のテープにより被告人に速度違反の事実があると認めた、同警察署巡査古田土邦からの合図によつて被告人を取調べるべく、被告人に対し、その運転する自動車を停止させたうえ、速度違反の嫌疑があることを告げ、その住所、氏名を尋ね、運転免許証の提示を求めたにもかかわらず、被告人が、自動車は停止させたものの、速度違反の事実を否認し、また、住所、氏名を告げず、運転免許証も提示しなかつたので、更に、連絡によつて右取締りの現場に来た同警察署交通係長警部補宮下彦四郎において、被告人に対し右同様の要請をしたが、被告人はこれにも全然応じようとしなかつたので、前記村上巡査外一名において同日午後〇時三〇分右宮下警部補の指揮により被告人を速度違反罪等の現行犯人として逮捕した事実が認められ、停車係を担当していた村上正が直接その肉眼で被告人に速度違反の事実があるることを現認していなかつたとしても、前記のように、数人が一グループとなり、互いに連絡を取つて速度違反の取締りをしようとするいわゆる定域測定式速度違反取締りにおいては、合図係、測定係および記録係が互に協力して現認した速度違反の犯人を、停車係が記録係の通報によつて停車させた場合にも、なお右犯人は「現に罪を行い終つた」現行犯人というべきであり、停車係が配置されていた場所があらかじめ道路上に測定された一定区間の出口から約三〇〇米離れた地点であつたことは、高速度で走行する自動車の速度違反の取締りのため必要かつ相当の距離であるから、このことによつて、右犯人が「現に罪を行い終つた」現行犯人とは認められないと解すべき理由は見当らない。なお、原判決は、いわゆる現行犯人は当該事件の現場における諸状況からみて、何人にも誰が犯人であるかが明らかに識別できる場合でなければならないと説示しているが、現行犯人というためには、犯罪が行われたことが、逮捕に着手する直前に外部的に明白であり、従つてその犯人が外部的に明白であれば足り、当該取締りに当つた警察官に被告人が速度違反の犯人であることが明白である以上、右警察官以外の者には、犯人が如何なる犯罪を犯したかが一見して明白であるような状況がなかつたとしても、被告人がいわゆる現行犯人ではないとする理由はない。
さらに、原判決は、現行犯人の逮捕にも、刑事訴訟規則第一四三条の三の準用があるものとし、本件逮捕は必要性を欠いていると非難しているが、現行犯人の逮捕については特にその必要性に関する規定がなく、また、現行犯人は、犯罪を行つたことが極めて明白なところから、特に令状がなくても、これを逮捕できるとしたものであり、そのため刑事訴訟法第二一三条も、「現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」と規定して、私人もこれを逮捕することができるとすると共に、同法第二一七条が、「五百円以下の罰金、拘留又は科料にあたる現行犯については、犯人の住居若しくは氏名が明らかでない場合又は犯人が逃亡する虞がある場合に限り、第二百十三条乃至前条の規定を適用する。」と規定して極めて軽微な事件についても、一定の場合にはこれを逮捕することができるとしていることに徴すれば、現行犯人の逮捕については、逮捕の必要性の有無を問題にする余地はないものと考えられるばかりでなく、仮りに逮捕の必要性の有無が問題になりうるとしても、その程度は刑事訴訟規則第一四三条の三の規定よりもはるかに寛やかに解すべきところ、交通法規違反の現行犯人の逮捕については、特に国家公安委員会規則第二号犯罪捜査規範第二一六条の注意規定が設けられているところからみれば、これを基準として処理すれば足るものと思われるが、前記本件逮捕の状況を考察すれば、右規定の趣旨からみて、本件逮捕はやむをえない措置であつて、その必要性があつたものと解するのが相当であり、被告人が運転していた自動車の車種、ナンバーおよび所属会社が判明しており、従つてその所属会社に電話することによつて、被告人の氏名、住所を明らかにすることができ、又被告人が逮捕により相当の経済的損失を受けることがありうるとしても、被告人は住所、氏名を告げず、また運転免許証も呈示しなかつたことが明らかであつて、その氏名、住所が明らかでなかつたものであるから、交通に関する刑事事件の迅速適正な処理の建前、交通事犯の発生の状況、およびその取締り、取調べの現況を併せ考えれば、これらの事情によつて本件逮捕の必要性を否定することはできないものと解すべきである。
そして、逮捕の際、官憲が、犯人に対し暴行、陵虐を行い、その威力の影響の下に取調べを行つた場合には、これを憲法第三六条に違反し、同時に同法第三一条を蹂躙したものと考える余地がないとはいえず、かつ本件逮捕においては、該逮捕を指揮した前記司法警察員宮下彦四郎が被告人に対し、原判示のような暴行を加え、その結果被告人が傷害を負うという事実があつたとしても、本件逮捕はすでに説明したとおり適法、適正のものであつたことが明らかであり、かつ記録を精査し、かつ、当審における事実取調の結果を検討しても、右暴行による威力の影響の下において取調べが行われたとの事実は認められないから、そのこと自体はまことに遺憾なことではあるが、しかし、このことをもつて、ただちに憲法第三一条に規定する法の公正な手続による裁判の保障のために公訴権の行使を許さないとする訴訟手続における違反であるとは解せられない。従つて、本件捜査手続を憲法第三一条に違反するとし、刑事訴訟法第三三八条第四号を準用して公訴棄却の言渡をした原判決は、不法に公訴を棄却したものであつて、到底破棄を免れないものであり、論旨は理由がある。
よつて、本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三七八条第二号に従い、原判決を破棄したうえ、同法第三九八条の規定に従い、本件を大森簡易裁判所に差し戻すこととし、主文のように判決をする。
(裁判官 河本文夫 清水春三 西村法)